甘味処

備忘録

いつかの暗闇

後悔ばかりしている。

 

人生を道に例えるなら、小さな一歩を繰り返して何とか進んでいるようなものだけど、行き先を背にして後ろ向きに歩いているイメージで。今まで通ってきた道が、どれだけ離れていても鮮明に見える。何度も反芻しているから、学芸会の台本みたいに、誰が何を言ってどうなったのか分かる。分かるから思い出せて、思い出せるから勝手に映像が流れ込んでくる。目を瞑っても頭を叩いても流れ込んでくる。

たまに余計なことも引きずり出されて、進む力が無くなって、同じ場所で足踏みしてしまう。 足元で砂ぼこりが舞ってお気に入りの靴が汚れる。悲しくなって涙が出て、疲れて眠って少し忘れる。起きて歩こうとするけど靴は汚いままで、それを見てまたひどく落ち込む。

靴の汚れはいずれ、風が飛ばしたり雨が流してくれる。使い古したのなら新しく買うこともできる。でも、後ろ向きに歩く癖がどうしても抜けない。たまに足踏みするのも、気付けばやっているから防ぐことができない。

何度も立ち止まって何度も泣いたのに変わらない、変えられない。頑張ったと思っていたのに努力が足りていない。歩いてきた道のりだけが長くなる。流れ込んでくる映像も増える。

叶えたい夢や目標が無いわけではない。むしろ、ある、ちゃんとある。それを誰かが達成する度に自己嫌悪に陥る。自分は出来なかった、また遅れをとってしまった、それでもやっぱり後ろを向いたまま、過ぎてきた道のことを考えながら、足踏みして靴を汚しては泣く。変わればいいのに変われない、変わらない。頑張りもしない。

 

27年間生きてきて、初めて「死にたい」と思った。

正確には、「生きるのをやめたい」くらい。死ぬのはどうしても怖い。人間が突然いなくなることを受け入れられない。

少しの間、歩いてきた道を戻ることはできないだろうか。掃除して、要らないものは捨てて、大切なものが埃を被っていたら、拾い上げて綺麗にして持って行きたい。そのために、進むことを少しだけ休めないだろうか。

迷惑をかけたのに何も言えなかった人に謝りたい。将来から目を背けて眠りこけているところを叩き起こしたい。間違えたことを認められずに強がって放った言葉を撤回したい。嫌と感じたまま受け入れたことを、ちゃんと拒否したい。知らないままで良いと閉じた本をもう一度開きたい。素直に言えなかった「ありがとう」を伝えたい。人の気持ちも知らないで自慢気になった自分を叱りたい。上手く弾けなくて、八つ当たりして叩いたピアノの鍵盤を撫でてあげたい。愛してくれたのに愛し返せる勇気がなくて突き放した手を、また握りたい。

このままずるずると、後悔を引き連れて歩き続けるくらいなら、全部やり直したい。最初から上手くやっていれば、こうならなかった。こんなはずじゃなかった。こんな自分は、好きじゃない。こんな自分は要らない。

 

そう、今の自分が綺麗じゃないからと、簡単に捨てることができればそれがいちばん楽。でも、その勇気も持ち合わせていない。どこかにひっそり残る、自分を信じたい自分がしつこく、駄目だよ、勿体ないよと語りかけてくる。きっとそのわずかな希望が、崖っぷちに立つ自分を引き止め続けている。だから飛び降りる勇気がない。というのも、ただの言い訳だけど。

悔やんでは泣いてを繰り返してきたのは自分。でもそれを肯定してきたのも自分で、どっち付かずのまま歩き続けてきたのもやっぱり自分。誰かのせいにできればいいけど、この一本道を歩いてきたのは自分だけ。自分が決めて、自分でやってきたのだから、全て自分に帰結する。それすらも情けなくてつらい。また立ち止まる。汚れる。

 

結局、ここまで気付かなかったというのは、幸せなのかもしれない。それか、呑気に生きていたせいで知らなかっただけかも。

眠る前に布団を被って泣いたことはいくらでもあったけど、どうして涙が出るのか良く分かっていなくて。疲れたら寝てしまったし、難しいことは後回しにしていたし。あまり、難しいことではなかったけど。

言ってしまえば、ずっときっかけを待っていた。自分が変わらざるを得ない出来事、どこかの誰かが手を差し伸べてくれて、この泥沼から引きずり出してくれること、過去や未来や、そんなものがどうでもよくなるくらいの天変地異、それを素直に待ち続けていた。ちゃんと前向きに歩けるようになるには、それしかないと思っていた。苦んでいれば、痛がっていれば、気付いてもらえると思っていた。甘えていた。いい大人になるまでずっと。だから駄目なんだ。変われないんだ。

どうしていればどうなるはずだったのかとか、考えたところで何も想像つかないし。ただ今のこの道が合っているとは思えないだけで。進むべき人生があるかどうかも、知らないし、分からない。でも歩き続ける足を止められない。いつの間にかこの道以外は無くなってしまった。

 

諦めたい。でも諦めたくない。

めんどくせ。

KOM信者が観たゴジコン

 ※この記事では、ようやっと、ようやっと!!日本で公開された映画「ゴジラVSコング」 及び関連するモンスターバース作品の内容にこれでもかと触れていますので、ネタバレを回避したいという方はお気をつけ下さい。 

初めてゴジラ映画を見たあの日のあの瞬間から、この世界観にどっぷりハマってしまい、ハマりすぎたまま今日を迎えていると思うと、それはそれで感慨深い、と今更ながら色々振り返ってしまいます。当時は、何が自分をそこまで刺激したのかが分からず、いつの間にかデカい怪獣が出てくるパニック映画にハマってたな〜くらいの気持ちだったけれど、今なら分かる、今なら言語化できる、と思って勢いのまま書き殴っています。
本当はその前に投稿したい記事とかあったのに全部後回しにしてしまった、まとめたいものが多すぎるオタク。
それにしても自分が何かを好きになり、その感情を分析するのが好きな人間としては、自分の趣味嗜好に対する解像度がまた上がったので嬉しい限りです。新しい分野を開拓したいときに便利だったりするよね。
まあいいや、本題〜〜。


そもそも私は、ゴジラに関する知識がとても乏しいです。

まともに見たことのある作品と言えば、初代、三大怪獣、大怪獣総攻撃、シンゴジラ、ギャレゴジ、ドハゴジなので明らかにミーハーです。
FINAL WARSに至るまでの特撮作品があってこそ今ハリウッドなどでも盛り上がりを見せている、というのは承知の上ですが、映画においてリアルで壮大な描写を期待しているので、肌に合わないものは尽く避けてきてしまいました。
とは言え往年の作品に関する知識が多ければ多いほど楽しめる界隈 であることも痛感しているので、興味を持っているうちになるべく沢山見たいとは思っています。
話がそれてしまいましたが、ゴジラは好きだけど詳しいわけではないということを(半ば言い訳として)一応触れておきました。


記憶が定かではないのですが、シンゴジラとギャレゴジを見たのがほぼ同時期だったと思います。比較して1人でキャッキャしていたので。(正確には、 シンゴジラを劇場で鑑賞、 その前後でギャレゴジをレンタルか何かで見たのだと思います。) 特にシンゴジラは大好きでメイキング付きの円盤を買いましたし何度も見過ぎてところどころ台詞を覚え始めています。
逆に言うと、私が持つ「ゴジラ像」がここから始まっていまして。いつぞやにどなたかの記事で(全てが曖昧でごめんなさい) ゴジラの描写は作品ごとに様々で、人類の敵となることもあれば偶像にもなり、はたまた人類の味方について他の怪獣を倒してくれたりもする、 監督や脚本家によって位置付けが変わる、ということを知り、じゃあ私が勝手に好きな偶像を作り上げていっても良いんだなと開き直ったことがあります。それがゆえに自分の好きな方向へとどんどん妄想が膨らみ、その主観に合った作品を好むようになったのだと思います。
ではその主観とはどのようなものか。これに関してはゴジラ作品だけにとどまらず色んなものを見聞きした結果なのですが、まず「神話や伝説などの類いが関係する」 ということ。民俗学が好きなんですよ、人々の信仰とか、 宗教的行事が登場する映像作品が好きなんです。まあつまり、「大戸島の呉爾羅伝説」 を親鳥と思ってひたすら追いかけ続けているんです。神の化身と崇められていたとか言われちゃったら、そうであるとしか思えなくなってしまうんです…。
もう一つは、「自分の生きる現実世界に近いものである」 という点です。いや、ゴジラはこの世に居ないじゃん、と思うかもしれませんが、要は「現実世界と画面内の世界における差異が、ゴジラが居るか居ないかだけ」ということなんです。ゴジラと人類が戦うのであれば、我々が現実に持ち合わせている知識や道具で立ち向かってほしいんです。ほらまたシンゴジラじゃん!公開前のキャッチコピーも「虚構VS現実」だったし。「 もしゴジラが現れたらこの国はどう対応するのか」 の具現化だったじゃないですか。あれがドンピシャでハマっちゃったんでしょうね。
回りくどくなりましたがつまりは、それまでの趣味嗜好も相まって、シンゴジラという作品自体が私にとってのゴジラ観になったんですよね、最初からそう言えば良かった。
じゃあギャレゴジは?ってなりますけど、勿論ギャレゴジ、及びモンスターバースにおける描写も欠かせない存在です。大きな特徴(というか私がグッと来た部分)で言うと、「ゴジラは完全に人類の敵ではない、あくまで先にこの星を支配していた生物である」という点。色々壊されてたまったもんじゃないと、人間があらゆる方法で攻撃はするもののどれも効かず、それどころか完全無視されているというのが清々しいですね。現実の生物学者と同じように、不明瞭な生態を研究する団体があって新しい事実がどんどん明らか になるのも楽しいです。このあたりはシンゴジラと少し似ているかもしれないですね。(いま、巨災対モナーク比較したらめっちゃ面白そう、 と思いましたが、長くなりそうなのでまたの機会にします。)
モンスターバースは規模が大きいということもあって、その設定は少々無理があるのでは、とツッコミたくなる場面もかなりあるんですが、思考がぶっ飛ぶくらいには映像美に圧倒されます。我々の手に負えないくらい壮大で、 畏敬の念すら抱く災害という解釈、「現実的な世界で起こる超現実」 がリアルで美しいCGで表現されるところに魅力を感じます。
そんなこんなでまとめますと、僕が考える最強のゴジラ像(あんみつver)は、「人類に多少の損害をもたらすものの、 超自然的な偶像でもあり、古代からの歴史や伝説を彷彿とさせる描写を含んだ、リアルかつ荘厳で美しい怪獣」なのであります。


そして、この独断と偏見に満ち溢れたゴジラ像を持った状態で出会ったのが、KOMことドハゴジなのです。ご覧になった方なら言わずもがなと思いますが、私の主観とドハティ監督の作り上げた世界がドンズバで合致してし まったんですよ。
いや〜怖い怖い。まあ、そりゃ多少食い違う点もありますよ、人間ですから(?)、でも私が理想としていたゴジラがそこにあったんです。むしろドハゴジを見たことによって足りなかった部分が補われたと言っても過言ではないほどで。例えば、世界各国にて巨大生物の存在が確認されているとか、それらが王(アルファ)の呼びかけで目を覚ますとか。ゴジラ関連作品からの引用だけでなく、様々な伝説の様々な怪獣が言及されているんです。ゴジラにとどまらず色んな巨大生物ものの映像作品を見ていたので、天才の所業と思わざるを得ませんでした。
ドビュッシーの「月の光」が使用されたあの圧倒的な予告からもう既に心は奪われていました が、とにかく映像が美しいのと、神秘性の高い描写が続くのも最高ですね。ポスターのビジュアルが好きすぎて公開時パソコンの壁紙に設定してました。
先日、 地上波で放送された際にはツイッターで大暴れしながら見たんですけども、多くの方が過去作品との関連事項を挙げてくださっていてとても勉強になりました。監督が歴代のゴジラを愛していて、そこから解釈を重ねてこの作品が生まれていることに感動してしま いました。
立派なKOM信者へと成り果てたわけです。めでたし。


さて、ようやくゴジコンの話に入ります。
当初は2020年内に公開予定、でしたっけ?延期に延期を重ね、やっと公開日が決まったと思いきやまた延びて、焦らされまくったことにより期待値がどんどんと上がっていました 。「モンスターバースシリーズ最新作」 という触れ込みに無論ワクワクしましたし、 擦るほど見たKOMの続編がこんなにも早く見れるなんて、嬉しくて仕方ありません。
あまりの興奮に胸が高鳴った私は、一つ勘違いをしてしまいました。今作にて、KOM内で明かされなかった新事実などが明らかになるのではないか、と思い込んでいたのです。 誰もそのようなことは言っていませんし、ゴジラとコングが対決するということ以外は、予告やプロモーションから汲み取ることが出来ません。 しかしあまりにKOMが好きすぎて、KOMの物語が続いてほしくて、余計な妄想が捗ってしまったんです。
マークやマディソン、芹沢博士の息子が登場しますし、時系列的にもKOMの後の話であることには間違いありません。しかしながら、先ほどからしつこく言っている「超個人的ゴジラ像」を持ったまま劇場へ向かった私は、 ちょっとした肩透かしを食らってしまいました。あれれ、そういう感じで進んでいくのか、と。
100%、否、1億万%、自分に責任があることは理解しております。作品とズレた価値観で過剰に期待したのは私で、映画自体はとても素晴らしく、勢いがあって見応え抜群でした。オムライスを食べたくてレストランに入り、脳も舌もオムライスを望んではいたものの、メニューにはナポリタンしか無かったのでそれを注文し、出されたものは美味で、満腹状態で店を出た、という感じです。逆に分かりづらいかも、これ。
つまり、最初から頭を空っぽにして観に行っていれば、もっともっと楽しめたはずなのに、という話なのです。今作において触れられない内容ばかり考えていたので、変な勘ぐりが生まれてしまったのだと思います。KOMで満たされる欲はKOMで満たすべきで、ゴジコンで満たすことのできる欲は、以下略、ということです。
映画館へ足を運ぶことが趣味となってだいぶ経ちますが、このような体験は初めてで、それもあってかなり戸惑いが大きかったです。エンドロール中、マスクの下では口が開きっぱなしになってしまって…(笑)。 帰り道、色んな方の感想を貪るように読んでしまいました。 まあそれはいつもやってるけど。
そんなこんなで今は後悔が増幅し始めていて、 可能なら記憶を抹消してまた観に行きたいんですけど、 無理ですからね。2回は劇場で観ようと決めていたので、 次こそはもっと軽い気持ちで楽しみたいと思います。


反省はこのくらいにして、 もう少し内容に触れた感想も残しておこう〜。
いやはや、本当にスピード感がエグくて、 2時間近くあったとは思えないですね。 怪獣バトル以外のシーンは特に展開が早くて、 面白いくらい都合が良いし、でもそれが気持ち良くてね。 理解しようとすると置いてかれるので、飲み込むのが一番効率的(笑)。 前作に登場したキャラクターは何となく性格とかも分かるからいいんですけど、今作初登場の人たちがどんな立ち位置なのか、 もう少しだけ詳しく知りたかったのが本音…。 芹沢博士の息子とか、もう少しそれっぽい言動見たかったかもな。
最初のバトルは予告でもあった海上戦。見たときから「コング泳げるんかなあ」と心配(?) してましたがさすがにゴジラが有利でしたねえ。 というかゴジラは熱線放射という圧倒的攻撃方法があるのに対して 、コングは基本殴る蹴るだから、 どうやって対等っぽく見せていくんだろうって、 この時点で結構気になってました。
マディソン、というかミリー・ボビー・ ブラウンめっちゃ素敵なレディになってて興奮しちゃいました。 良くも悪くもお母さまの影響を多大に受けていて、 それに振り回される眼鏡くん面白かったですね。
ネットラジオのうp主がすぐ見つかるとか、 秘密裏な実験をしてる企業のセキュリティーがガバガバなとことか 、オイ!ともなるけど、 脚本上ではそれくらい都合良い方が見やすいかもですね。
そうそう、メカゴジラね…。 そろそろそんなものが出てきてもおかしくないとは思いましたけど 、ギドラの頭が使われるとは。しかもレンくんが操縦するんだね! あんな大画面で白目剥くなんて聞いてない… 1回ならまだしも2回も3回もあるとだんだん不安になってきますよね。ってか監督、 クローズの映画みて小栗さんを知ったって言ってた気がするんです けど、それはあまり関係なかったってことですかね。
前回ゴジラのお家が破壊されちゃってどうするのかなと思っていたけれど、それと今回出てきたあの世界は関係してるんですかね。( 前回の場所はあくまで地表側にあったのかな、 今回はもっと核に近い、とか?) 重力の反転とかも見ているだけじゃ完全には理解できなかったんですけど、 綺麗な画だったし出てくるモンスターも程よく気持ち悪くて見応え ありました。コングが本当に純粋無垢で頭が良くて、 下手したら私なんかよりも遥かに状況把握能力が高くて、 恐るべしですね。あの斧、ゴジラの背びれだったんですね!? ゴジラを倒す最適な武器がゴジラの一部って、なんか皮肉ですね。 で、香港に到着したゴジラが地表に穴を開け始め、 最初は地下のメカゴジラに反応してるもんだと思ってたんですが、 まさか裏っ側にいるコングに向けているものだとは…。 しかも届くんですね(笑)。そこまで貫通できる熱線なら、 とっくに地球が無くなっていそうな気もしなくもない、というか、 じゃあ南極にあったあの入り口は何なの? などと考えている間にもう2体は再び向かい合っていて。 早く対決を見たいと思っている観客からしたら、 近道を作ってもらえてありがたいですね。 現代的なネオンの真ん中でドンパチ繰り広げる様子は新鮮でした。
メカゴジラの暴走。 この時点で悪事を企んでいた人間が全員居なくなったのはちょっと 笑えましたね。そんでもって強いんだ、こいつが。 一方で瀕死のコングを生き返らせるためにと「ラスベガス1週間分の電力」で伏線回収。 すごい繋げ方だなとも思いつつこういう展開はかなり胸熱でした。 コングが目覚めた辺りから夜が明け、 ここからの対決は明るく見やすくて嬉しかったですね。 ギャレゴジはほとんど暗かったしドハゴジは比較的明るかったけど それでも不明瞭な画面でしたからね。 というか今作は全体的にバトルシーン明るくて、 それだけでも超見応えありますよね〜。そしてまさか、 メカゴジラを倒すために協力し合うゴジラとコングが見れるとは、 どうやったらそんな話が思いつくのか。 最終的には決着はつかないまま、という認識で良いんですかね。 ゴジラも決して、 全怪獣を組み伏せることはしないということなんでしょうか。 コングはまだまだ若いらしいし、 ゴジラに怯むことなう歯向かう姿勢が評価されたような感じはしま した。


細かいところを挙げ始めたら無論キリがないんですが、 ど派手なアクションの連続で間延びすることなく、 全てを物理で解決する怪獣映画を、 ハリウッドのクオリティで見られたのは幸せですね。大画面、 大音量で楽しめて良かったです。無事に公開されて何より。
やっぱりKOM好きとして思うことはたくさんありますが、 映画を楽しむ方法はいくらでもあるということを、 忘れないようにしたいと思います。
次はいつ見に行こうかな〜。

希望的観測に至った経緯

 

こういう時期なので、新しい生活が始まったばかりという方も結構いらっしゃるんじゃないでしょうか。

わたしは基本的に、居心地が良い環境を見つけるとそこから動いたりするのが億劫になるタイプで、強制的に引き離されるとものすごく嫌な気持ちになるし、将来を考えるのが大の苦手なので、先が見通せないと必要以上に落ち込んでしまいます。なので必然的にこの時期はナーバスになりがちです。

今は多少落ち着くことができたんですが、ついこの前まで不透明な未来ばかり想像していて、自分の居場所が期限切れにでもなったかのように追い出され、新しいところへ向かわされることにひどく腹を立てていました。

ずっとこのままが良い、わたしは十分満足しているし、知らないものは怖いし、変に挑戦をして嫌な思いをしたくないからと、屁理屈を捏ねておりました。

見苦しいですね非常に、今思うと。

でも、あまり考え方は変わっていません。できればずっと、同じ環境が続いていてほしいし、あわよくば歳をとりたくないです。どう頑張っても、そんなことはあり得ないんですが。

少し変わったことがあるとすれば、向かいたい先を想像するようになったところです。こうありたいという姿を妄想するようになった、と言いますか、要は変身願望というか、現状を打破したいという気持ちが何となく芽生えてきました。

それに伴って(?)自分を俯瞰して、客観的に現実を捉えることができるときと、理想ばかり並べて、夢みがちになるときがあって、もちろん、どちらかと言えば後者が楽しいんですけど、厳しい状況を突きつけられるときがあります。

理想を語ることは決して悪いことではないですし、明るい話題に元気付けられるときもありますが、どうしてもそこから目を背けなければいけないときが身の回りに潜んでいる、という感覚があります。

じゃあ、どうすればいいんだろう、と立ち止まってしまうんですよね。

叶えたい夢や目標はあるが、その為にやりたいことだけやっていいわけではない、目の前には絶えず課題が現れ続けて、それをこなすことに時間を費やしてしまって気がつけば日が暮れている。それにふと気づくと、虚しくなって気力がどんどん無くなっていってしまいます。

ちゃんと道のりを調べて目的地へ向かっているはずなのに、歩けば歩くほど遠ざかっていくような気がするんですよね。あとは、そもそもゴールは存在するのかと疑い始めたりもします。ただの蜃気楼なのかもしれない、みたいな。

ここまで書いておいてアレですが、ずっとこの考えにはまり続けるのは相当まずいです。悩むことは良いことだと思うんですが、あまりにも悲観的だと、どんどん足を引きずられていきます。ソースはわたしです。

人間、本当にやりたいことがあるのに、それとは別の作業に時間を食われるという状態が発生しがちなのかな、と最近思いました。最初から全てが思い通りに動いて、全てのピースが一致して、尚且つ必要最低限あるいはそれ以上の生活を送ることができるケースはとてもレアで、そういう対象を羨ましく思うのは自然なことなんですよね。

才能を身につけた人、夢を実現させた人は必ず努力をしています。同じように道を歩み、桃源郷へ辿り着いた人、というイメージです。だから、自分にもきっと出来るはずなんです。ちょっと歩幅が違ったり、寄り道してしまっているかもしれないけれど。

夢に思っている時点で、達成までの道のりの途中に居るはずなんです。ゴールが遠く思えるかもしれないけれど、進んでいれば必ず辿り着く一本道に、ちゃんと立っているんですよね。

本当に、今までに比べて色んな事を楽観視できるようになったと思います。出来ることはどれだけ小さくても続けていこうと思えるし、目の前のハードルを超えることに力を注げるようになりました。

目標を具体的に持つことで、強制的に先行き不透明な状態から脱した、というのもありますが、自分の不安を言葉にできたのが一番大きいかもしれません。何となく不安でつらい、という状態が続いていたので。

まあそれでも、現状に不平不満はありまくりなので、これからもぐちぐち言いながら頑張ろうかなと思います。

 

なんか、こんな記事ばっか書いてるな。

5人のファンになったあの日のわたしへ

などどいう、エモめの題名を思いついたので採用してみましたが、実際はファンになった瞬間を全く覚えていません。

気付いたら周りがハマっていて、気付いたら自分もその中の1人になっていて、気付いたらファンクラブに入っていて、気付いたら今でした。

だから結局のところ、理由とかきっかけは何を言っても後付けになってしまうんですが、嘘偽りは無いはずなので許してください。

誰に許しを乞うているんだろう。

 

それでも覚えている出来事がいくつかあるので振り返ってみます。

うたばんを録画したくて、その流れで家族に、ファンであることがバレました。まあ別に、隠していたわけでもないんですが。

誰が好きなのかという話になって、「待って、当てるから」と言われて素直に待ったのですが、3人ほど名前が上がった時点でもう思い付かなかったらしく、結局自担が出てきたのは最後でした。

その後、何かのタイミングで母からもらったプレゼントが、初の国立公演のDVDでした。今でもあの映像が一番好きです。

初めて行ったコンサートは10周年の東京ドーム公演でした。同じ時期にファンクラブに入った友達と一緒に、それぞれ別日で申し込んだところ両日当選し、しかもどちらもアリーナ席で、おそらく四半世紀分の運は使い果たしました。

大規模なコンサートへ行ったのは初めてで、興奮でまるで記憶はありませんが、この日のために緑色の服を買い、うちわを作り、早い時間から会場周辺で遊び、公演後会場を出る際、爆風に背中を押されてしばらく笑ったことは、朧げながらたまに思い出します。

一番ファンらしいことをしていたのはおそらくこの時期で、以降は、違う趣味に没頭したり、私生活が忙しかったりで、気持ちも熱もどんどん落ち着いていきました。

時間が出来たり自分でお金を稼ぐようになったり、何か大きな情報解禁があると、その度にフワッと浮き足立って、しばらくすると元に戻る、その繰り返しだったような気がします。

それでも自分はファンであると自称していたし、そのお陰で仲良くなれた人もたくさんいて、リアルでは勿論、ネット上で本名も知らない人たちと、共通の趣味で盛り上がることができる楽しさを知ることができました。

 

最近であるということも含め、活動休止が発表された日のことは、何よりも鮮明に覚えています。

あの日はバイトをしていて、ちょうど17時に休憩に入って、何となく本屋に行きたかったので一度外に出たんです。そういえばスマホを見ていなかったと思って、信号待ちをしがてら画面を開いた時に飛び込んできたのがLINEニュースの文字列でした。

周りの喧騒が聞こえなくなって、膝が笑うような感覚があり、落ち着こうと思って適当なトイレの個室に駆け込みました。

ツイッターを開けばTLはその話題で持ち切りで、普段アイドルのことなんて全く呟かないような人まで反応していて、正直それはちょっとだけ嬉しくなってしまいました。

会員限定で動画が上がっていると知り、すぐに再生しました。丁寧に、静かに、現実を受け入れていく自分がいて、それはきっと本人たちの声で直接聞くことができたからだと、今になって思います。

一気に3人くらいから連絡があり、ご飯の約束を取り付けて急いでバイト先へ戻りました。

戻ってすぐに「聞いてくださいよ!」と言いたかったんですが声が出ず、かと言って明らかに落ち込むのも自分勝手すぎると思い、ソワソワしていたらそれが表情に出ていたのか、怪訝そうに顔を覗かれたことを覚えています。

家に帰ってから会見の映像を見て、ネットニュースに上がった記事をしらみ潰しに読み、何かストンと納得できるような感情を探しましたが、結局この日は心がざわついたまま寝ることになってしまいました。

 

あくまで解散ではなく休止であって、グループの活動が見られなくなり、1人は完全にお休みするが、他は個人の活動を続けると、あらゆるメディアで知ったものの、自分の中で勝手に変換して認識していることが多々ありました。例えば、5人が再び揃うのは当分先のことになるのでは、とか、もしかしたら、そんな日が訪れない可能性もあるんじゃないか、とか。明言されていないというだけで疑ってしまって、思い込んでしまって、でもそれに対してとてつもなく深い悲しみを覚えたわけでもなく、それに違和感を抱いて言語化してみようと試みるも失敗し、何も分からない、という日々がしばらく続きました。

それでも刻一刻と時は過ぎ、気付けば今日という日を迎えているわけです。

 

おそらくファンであることを自覚し始めてから10年以上が経ち、ずっと同じ気持ちでいたと言えば間違いなく嘘になります。明らかに熱は冷めているし、担降りに近い状況と思う時すらありました。周りと比べるとハマり度合いも低く、別に、自分が応援したいように応援すればいいと思うのだけれど、そんな中途半端で良いのだろうかと悩んでしまうこともあり、それが楽しくないならいっそ見るのをやめればいいものを、でもやっぱり好きだし、と半ばしがみ付くようにしてきたのは自分だし、どんどん悪循環に陥っています。

SNSが始まったときも最初はものすごく嬉しくて、きっと、ファンになりたての自分が知ったら失神するくらい喜ぶんじゃないかと思ったけれど、今のわたしはそこまでの感情を抱かなくて、SNSに限らず色んなことを後回しにしてしまって、そうやって消化するのは失礼にあたるんじゃないだろうかとか、変な考え事をするようになって。

音楽やパフォーマンスも、最高!と思うときもあれば、他を見ている方が楽しいときもあって。何よりも5人を見ることを優先していた自分は、とっくに居なくなっていたことをひしひしと感じています。

 

でも、ここ数ヶ月、色んな場面で「最後」という言葉を見かける度にこみ上げるのはやっぱり寂しい気持ちで。今日という日を迎えたことも、とにかく虚しくて。わたしの中で僅かな量になってしまった愛情がここにきて熱を帯びていて、どうにかして形に残したくてこの記事を書いています。

それに伴って思い浮かんだのがこのタイトルだと思うんですけど。

 

5人を知ったことで、好きになったことで、確実にわたしが過ごす時間は彩り豊かになって、自分だけじゃ触れることがなかった世界にもどんどん足を踏み入れたし、考え方も変わったし、有ると無いとじゃあ、全く別の道を歩んでいたと思います。

あの頃想像していた10年後にはならなかったけれど、ここまでずっとファンとして過ごした時間は本当に楽しかったし、これからの時間にも必ず影響を与えるだろうし、そうであることがとても嬉しいです。

 

決して終わりじゃ無いけれど、わたしの中で1つの区切りになったような気持ちです。

「美術館女子」について思ったこと

あまりにも話題に触れるのが遅い。

分かってはいますが、少しだけ考えていたことがあるので、箇条書き程度に残しておきます。
このブログ、どんどん自己満足度を増している…。

理系女子、歴史女子、あるいは刀剣女子が話題になった際はそこまで意識していなかったけれど、今度の「美術館女子」に何となくもやもやするのは、自分が美術館好きで女性に区分されているから、何となく当事者意識があるからなのかな~とか考えたりしました。

写真を撮ることや、それをSNSで共有することを目的とした作品もあるし、美術をよく知らない人でも気軽に楽しめる展示というのも存在すると思います。

ただ、美術館という場所に、知識を得るためだとか、癒しを求めるために訪れる人もいるわけなので、目的が違う人に対して決めつけるように「美術館女子だね!」と言ってしまうのは的外れだと思いました。(ザッと見た限りそのような光景は無かったと思います。)

美術館女子における「女子」の定義が、アイドルとして活躍する方を起用していることもあり、「愛らしく "未熟な" 女性」を指しているという意見に納得しました。

※決して女性アイドルを蔑視しているわけではありません。

日本におけるアイドルの起源がそこにあると思っています。歌が上手いとかダンスが出来るとかよりも、成長していく過程を見せることができる人、尚且つ愛嬌のある人が、アイドルの定義に近い人間とされた歴史があると認識しています。

「美術に関する知識がなくとも、美術館を楽しむ方法はある」というのは事実と思います。背景を知らずとも作品に対して好き嫌いが芽生えることは決していけないことではないですし、それこそ写真映えする作品や建築もあれば(撮影可能な場所ばかりでもないですが)、併設のカフェやショップも楽しいところが沢山あります。美術館という場所に沢山の人が訪れることはプラスな現象ですもんね。

件の企画の目的はこんな感じだと思いますが、「美術館女子」という言葉が独り歩きしている印象があります。今まで登場した色んな「○○女子」が物議を醸していたのと同じように注目を浴びているのかもしれない、と思いました。

ツラツラ書きましたが、要は自分が、企画で言われているところの「美術館女子」には当てはまらないのかもしれないと気付きました。未だ知識は浅く、ミーハー感覚で美術館に行くこともありますが、どちらかと言えば、勉強のため、自分の興味の範囲を広げるために訪れていると認識しています。多くの人が集まる場所だからこそ、難しいところなんですかね~。

ジェンダー的な問題に対しても世間が敏感になってきているので、このタイミングであのような企画をスタートさせたところも、話題を生んだ要因かもしれないですね。

26歳になりました

ちょうど10年前、高校生くらいのとき、何だか分からないけどほぼ毎晩泣いていたんですよ。思春期だったんでしょうね~。課題もやらずに遊び呆けて、何も終わらなかったな、自分は駄目な人間なんだな、周りにも迷惑かけて、最低だな、って感じで、後悔とか情けなさみたいなものがあったんですね。ずっとずっと、あるはずのない内臓が悲鳴をあげるみたいに、胸のあたりにトゲトゲした塊があって、内側から攻撃されているようでした。

今それが全部無くなったかと言うと、まだほんの少しだけ、欠片が残っているように感じます。あのときにボロボロ泣いたおかげか、ストレスとして溜まり続けていったということはなく、春の雪解けみたいに、胸中につっかえていたものは姿を消しました。ですが、当時の感覚を今でも鮮明に思い出すことができます。奥底に眠っているだけかと思いきや、割と簡単に現れて、気付くとどんどん蝕まれていく。寝たら大抵忘れるんですけどね。

歳をとる度に、もっと大人になれると思ってたな~と感じます。10年前に夢見ていた26歳という年齢の人間は、もっとしっかりしていて、頼り甲斐があって、素敵な立ち振舞いをするイメージだったのに。そう易々と思い通りになると思ったら、大間違いですね。

それでも10年という月日は確実に経過しているわけで。10年というと、結構な時間なわけで…。もっと出来ることがあったんじゃないか、変われることが出来たんじゃないか、と、後悔したらキリがありません。結局周りと自分を見比べて、自分に無いものを追い求めて、でも手に入らなくて、苛立って悲しくなって、悪循環に陥ります。

わたしは基本的にわたしのことが大好きなので、今までの人生ずっと幸せだったし、これからも幸せなのだろうと思います。それこそ、泣いてばかりいた10年前も、自分を嫌いになったことはなく、自分だけは自分の味方だと思っていて、そこに甘えていたし、今でも相当甘えています。

達成したい目標や叶えたい夢は少なからずあって、その為に努力することが出来たときは自分を褒めたいし、失敗したり何も出来なかったとしても、そんな自分を許してあげたくなります。だからこそ、変わりたいという気持ちがありつつ、無理する必要はないし、と制限を設けてしまっていると感じます。自分に厳しくなることが出来ません。そうまでして苦しい思いをしたくないんです。

でも、そうやって26歳まで来てしまったんです。その事実を、辛く感じるようになってきました。

だから何だ、と。ここまで過ごしてきたんなら何歳だろうが関係ないだろうと。そもそも26などという中途半端な歳で何を言ってるんだと。気持ちを改めるならもっとキリの良い数字で思えば良いものを。でも思っちゃったんですよね。何か妙に、26歳なのか、と思ったら、嫌ぁ~な気持ちになってしまったんです。

正直なところ、今までは、ネガティブな自分を受け入れて傷つくことから逃げていたんですね。そうすると、頑張らなければ傷つくこともないと気付いて、変わったり挑戦したりすることを嫌がるようになって、一番楽な道を選ぶようになるんですよね。実際、そうなりました。楽な道を選ぼうが、生きていくことは出来るんですけど、敢えて茨の道を選んだ人と比べたら、成長度合いが違うのは当たり前で。

何か、小さな些細なことでもいいから、自分が変わるための努力をしなければならないと、やっと思えるようになりました。劣等感に浸ってぬくぬくするよりも、もっとポジティブな自分を好きになりたいし、それで何か新しいものが生まれるなら一石二鳥だし。ずっとずっと、やりたいと思っていることはあるし、今それを達成できなくてもいずれは…と考えていけれど、そうも言ってられないような気がしてきました。

本当は、もっと早く気づきたかったですけど。たまたまそれが今年だったみたいです。

もちろん、これまでの時間が全て無駄だったとも思わないし、必ず自分の糧になっていることは分かっているので、それを活かせるように、過去の自分を誇りに思えるように、その上で、今の自分を誇りに思ってもらえるように、成長できたらいいなと思います。

 

という、決意表明のようなものでした。恥ずかしい!

もうすぐ夏ですね

特に何も用事がない日の朝、少し早起きして洗濯物干した時の優越感が好きなんですよ。

そういう日ほど天気も良好で、爽やかな風が室内に流れ込んでくる。

少なくとも6月上旬の現在、朝晩はかなり涼しく、窓を開けていると寒く感じることもしばしばあります。

ただ、真夏となると話が変わってきますよね。

あと数週間もすれば、日照りと湿気がもたらす不快感に負け、エアコンの温度を1つ下げることになるんだろうと容易に想像できます。

夏の訪れってわくわくしますよね。

基本的に、季節の変わり目というのは情緒的で美しいと感じます。

それは分かっているけれど、やっぱりそれぞれ嫌なところもある。

夏は暑すぎるし冬は寒すぎるんですよね。

夏における嫌なところってなんだろうと考えたんです。

空調の効いた涼しく快適な部屋から、一歩外へ踏み出した時に感じるもの。

せっかく時間かけて塗りたくった化粧が溶けていく苛立ち。

いくら喉を潤してもすぐに足りなくなり、勿体ないと思いつつ自販機に手を伸ばす

 

夏って、空気が止まったように感じませんか。

他の季節はもっと、風なり何なり、空気を動かしてくれるものがあるように思うんですけど、夏にはそれが無いんですよ。

蒸し暑さが面で押し付けられている感覚、まとわりついて離れないような、詰まっているような。

こう、ゼリーの中を無理やり進んでいるようで、どれだけ暑さ対策していようが関係ないんですよね。

何かしらちゃんと理由があるんだろうと思って、安直に「夏 空気が止まる」で検索しました。

エアコンの故障に関する記事しか見つかりませんでした、分かっていた。

空気が止まるというのはつまり風が無いことだ、という単純なことに気がついて、「夏 風が吹かない」で検索し直しました。

まあ、何となく予想はしていましたが、気圧配置の影響みたいです。

そもそも気温も高いし、ちょっとやそっと風が吹いたくらいじゃ不快感が拭われないんでしょうね。

湿気もあるし、汗もかくし、何かがずっと張り付いているような感覚になるのは当たり前でした。

調べてみると「そりゃそうじゃん」ってなることありますよね、正しい知識が再確認できるのは有益ですが。

 

凪、という現象?があるじゃないですか。

海沿いで、海風と陸風が切り替わるときに無風になる状態のことです。

いつどんなことがきっかけで、凪という言葉を覚えたのか忘れちゃったんですけど、知ったときはそこそこ衝撃的だったんですよ。

風が無い状態って有り得るんだ、と思って。

別段根拠もなしに、どんな場所でも風というものは吹いているんだと決めつけていたからかもしれません。

あまり海に行ったこともなかったし。

無風状態の海岸を思い浮かべて、うっとりしたことを覚えています。

 

真夏が近づくにつれて空気がじっとり重たくなって、分厚くとどまっているように思えると気づいたのは、それからしばらく経ってからでした。

この感覚が凪と同じかどうかは、比べたことがないので全然わかりません。

もし大差ないとしたら、凪にある種の憧れを抱いていた頃のわたしは、少しがっかりするような気がします。

遠い水平線を眺めていたら、風がぴたりと止み、さざなみだけが鼓膜を震わす。

そんな妄想を繰り返していたので、夏の不快感と酷似していたら、こんなもんか、と拍子抜けしてしまいそうです。

だからこそ、凪を知らないままでいいような気もしてきました。

海には行きたいけどなあ。

 

これだけ夏の短所をぐちぐち言っておいてなんですが、やっぱり待ち遠しいことには変わりありません。

スカッと晴れた青い空も、眩しく咲く花も、湿気を含んだ服の匂いも。

冷蔵庫に冷えた麦茶や、蝉しぐれ、風鈴の音、蚊取り線香の香り、夕焼けと長い影、遠くで聞こえる祭囃子、夜空に上がる花火、アスファルトでからんころんと鳴らす下駄。

やっぱり全部大好きなんですよね。

だから、もうすぐ夏が来るんだと思うと嬉しくなって、浮き足立って。

色んな情景を想像するだけで楽しみで仕方ありません。

 

でも結局、あのうだるような空気に嫌気がさして室内にこもるんですけどね。

暑いの嫌ですもんね~、今年も熱中症に気をつけましょうね。